2013年2月5日火曜日

褒められ下手

ずっと、褒められるのが苦手だなぁと思ってました。
褒められたらどうしていいか分からない感じで。

ただ照れくさいんだろうといい加減にしか認識してなかったのですが。
そもそもあまり褒められることはなかったので、まぁ、いいかと。
それに、慣れれば平気になると思っていたし、そのうち慣れると思っていたのですが。

シータを始めて、たくさん褒めて貰える機会が増えて。
何度もそれを体験する機会に恵まれて。
自分の感情にも少しずつ向き合えるようになってきて分かったのは、褒められてるときの、あのなんとも言えない感じは、ただ慣れてないから、照れくさいから、だけではなかった。

褒められると嬉しい反面、(お願いだからもう褒めないで!お褒めの時間、早く過ぎ去って!)と藁に縋る気持ちでいたんです。
これに気付くのに、半年かかりました(笑)
いや、たった半年で気付けるようになったなんて、驚くべきスピードかもしれませんね。

2013年2月2日土曜日

価値とエネルギー交換

神社でお賽銭に使うときは、なぜだか10円や100円なんかよりも5円玉のほうが価値があるように感じます。
 お札の使えない自販機の前では、千円札より500円硬貨のほうが価値があるって感じちゃいますよね。 

数字が大きい方が、価値は本当にあるのでしょうか?
金額が高い方が、本当に価値が高いのでしょうか?
人によっては、一万円より千円の方が何らかの理由で価値があると感じるかもしれません。
時と場合や人によって、価値と金額って一致しないような気がします。


話は変わって。
取引はエネルギー交換の一種なので、何らかの価値を得たら、同等の価値を対価として支払います。エネルギー交換は、どこから得るのか、どこへ払うのか、は、必ずしも一致しなくてもいい、というのが自然の法則なんでしょうね。

でも、意図的に提供者に支払う、というのが人間の感覚としては安心出来るエネルギー交換なのかな、と。
いつ、どんな形で支払わされるか謎のままにするくらいなら、今ここで、提供者とお互いに納得する価値で払って置いた方が、なんとなく安心な気が私はします。
払われる側としても、きっとそうですよね。
一般的な感覚としては。

2012年12月28日金曜日

悪い癖

やってしまいました。
ちょっと身体に無理をさせ過ぎてしまいました。
分かっていたはずなのに、ねぇ。
丸1日寝込むくらいでは足りず、その後に数日引っ張った挙句に更に丸2日寝込みました。
まだちょっとフラフラしています…が、年末は実家に帰る約束をしてあるので覚悟を決めて動くことに。

でも、無理をしたお陰で。
病気と障害と、ワールドリレーションズのセミナーを修了して来ました。

あれ?「お陰で」だって?
いやいや、そんな対価は要らないのに。
何で私は身体への無理という対価を支払いたかったのでしょう?

まだ「頑張ってる私」が必要なのかなー?
「頑張った私だったら誇ってもいい」なのかな?

2012年12月19日水曜日

お金を貯めたいのはどうして?

今日本屋に寄って目に付いた「お金を貯める方法」という言葉。

「お金を貯めたい」「お金を貯めなきゃ」
そのお金、貯めるのは何の為?

お金を貯めることでしか得ることができないことって何でしょう?
それは「お金を貯めることができた」という達成感だけな気がします。
もちろん、その貯めたお金でいろいろなものは買えるでしょうが。
その「いろいろなもの」は、そうすることでしか入手できないのでしょうか?

買いたいものがあるから、その購入費用を貯める。
至極真っ当なことのように思います。
でも、この場合の願いは「お金を貯めたい」ではなくて「○○が欲しい」ですよね。
どうして素直に「○○が欲しい」と願わず「お金を貯めたい」と願うのでしょう?

「○○が欲しい」を実現する方法を、「お金を貯めてそれで買う」に限定するのはどうしてでしょう?

自分の豊かさを押し留めているのは、こうして別の方法を除外していることも原因の1つかもしれないなぁ、と思う今日この頃。
自分の願い、もう一度見直してみたいと思います。

2012年12月1日土曜日

2012年12月の話

先月に数秘をちょっぴり学ぶ機会があったので、そこで教わってきたことのシェアということでTwitterで呟いた12月の占い?的なことに、更に加筆修正、他の事も加えてみました。


2012年11月23日金曜日

たまねぎをむいていく


クリアリングをしていくことをたまねぎの皮をむいていく、って例えることがありますよね。
何枚剥がしても、むいてもむいても、まだむける。
その先に、一体何が隠されていると思っているのかな、と。
ふとそんなことが頭を過ぎりました。
「本当の自分」?
「本当の自分」って何?
むいてむいて、どんどんむいていったら、そこにクリスタルが埋まっていると思っていて、それが「本当の自分」なんだと思ってないだろうか?
ステキでキラキラしたクリスタルが本当の自分で、それをたまねぎが覆い隠してる。このたまねぎに見えるのは自分じゃないんだ、と。

たまねぎはたまねぎ。どんだけむいていってもたまねぎじゃないのかな?
クリスタルを探してむいていったら、きっと細胞の最後の1つになっても「まだ見つからない」ともっともっとむいていってしまうのかな?
細胞をもっとむいていって、分子、原子、陽子に中性子、素粒子?そこまで行けたら、ようやく見つけたと思えるのかな?

2012年11月10日土曜日

「わからない」

「ここから先は「わからない」は禁句ですからね」

これはアシスタントで参加させて戴いた基礎DNAで、心に引っかかった一言。

「わからない」は、「わかりたくない」と「わかれない」に分けられるのかもしれない。
「わかりたくない」は、わかる自分になりたくない、それはつまり防御。
「わかれない」は、わかることができる段階に達していないってことかな。

基礎DNAの講座に参加している時点で、その人は「わかれる段階」には達しているものね。
その段階に達していないなら、参加していない。
だから、彼らにとって「わからない」は、「わかりたくない」ということ。
わかりに来たのに、「わかりたくない」と逃げ回ることは許さないよ、ってことかもね。


段階に達していないから、わかりたくても、何をしてもわかることができない。
そんなのは日常にも沢山あると思う。
その時わからなくても、ある日突然ひらめくようにわかるときがあると思う。
それは、その時までの間にあった何かが、「わかる段階」に至るまで、パズルのピースをひとつひとつ埋めることになっていたのでしょうね。

どちらにしろ、一足飛びで「わかる」を手に入れられるものではないのかもね。


でも。
「わかりたくない」は、「自分はそれをわかってもいい」と思える段階に達して無いだけ、とも考えられて、結局は同じことかもしれない。