中でも、衝撃的だったのは、私にとって合う「優しい」について。
シータで出会う人達は、みんな優しいんです。
優しさ、愛に溢れている。
誰もがそれぞれに個性的で、優しさや愛の表現も、またそれぞれに個性的。
クリアリングされていない問題で表現が歪む人もいれば、魂の向いている方向からそうなる人もいるけど、どっちでも、どんな理由でも、本人ではない私には関係ない。
人によっては、それが厳格さや厳しさとして見えたりもします。
それは、私の目から見たら、というだけ。誰から見ても、である必要も無い。
厳しく当たられているように私には見えたり感じたりしても、愛からだと心から理解している私が居るわけです。
愛の受容体があるから、分かるんでしょうね♪
そして、その愛を受け取れる。優しさだとも受け取れる。
でも。
私の好みの問題ですが、どんな優しさの表現を好むのか、が私にもある。
どれだけ相手が愛からそれをしていたとしても、私が好まない表現というものがある。
私は、私の好みの表現を選んでいい。
好まないものは、受け取らなくていい。
そんな単純なことに、はっと気付いたんですよ。
私が好まないからと選ばなくても、その相手の愛、優しさは変わらない。
あの人が嫌いだから、とか、あの人のあの表現は愛の表現ではない、優しさとは違う、とか言わなくてもいい。
他の人が、私が好まない表現を好んで選んでも、あぁ、ああいう表現が好みなのね、あの表現の方が受け取りやすいのね、でいい。
私にはそれは合わないだけ。
私が好む表現を取る人を選んでも、ただ単に、私にはそれが合うだけ。
私は、私に合う表現、好みの表現をする人達を選んでいい。
私に合わない表現、好まない表現をする人達を選ばなくていい。
どんな表現の相手を選んでも、受け取るのは愛や優しさで、本質的には同じものを受け取るのだから。
私にとって厳しいと感じる表現の人達を選ばないことに、何か罪悪感めいたものを感じていたのだと、今更気が付いた。
厳しさから逃げているのだ、それは良くないことなのだ、という感覚。
厳しさが必要なのは何故?
もう、自分に試練を与えなくてもいいことは分かってる。
自分の覚悟や強さを確認しなくてもいいことも分かってる。
厳しくなくても、楽しくても、存分に充分により良く学べることも分かってる。
どんな場合でも逃げたいときは逃げてもいいことも分かってる。
それでも、厳しさは必要?
あぁ、あの厳しい表現は、私にとっては「合わない」って言ってもいいんだなって。
それでも愛や優しさを私が受け取れても。
それがその人なりの愛や優しさから故の表現だと知っていても。
「合わない」から選ばない、でも、全然いいんだな。
唐突に、理解したのでした。
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