中でも、衝撃的だったのは、私にとって合う「優しい」について。
シータで出会う人達は、みんな優しいんです。
優しさ、愛に溢れている。
誰もがそれぞれに個性的で、優しさや愛の表現も、またそれぞれに個性的。
クリアリングされていない問題で表現が歪む人もいれば、魂の向いている方向からそうなる人もいるけど、どっちでも、どんな理由でも、本人ではない私には関係ない。
人によっては、それが厳格さや厳しさとして見えたりもします。
それは、私の目から見たら、というだけ。誰から見ても、である必要も無い。
厳しく当たられているように私には見えたり感じたりしても、愛からだと心から理解している私が居るわけです。
愛の受容体があるから、分かるんでしょうね♪
そして、その愛を受け取れる。優しさだとも受け取れる。
でも。
私の好みの問題ですが、どんな優しさの表現を好むのか、が私にもある。
どれだけ相手が愛からそれをしていたとしても、私が好まない表現というものがある。
私は、私の好みの表現を選んでいい。
好まないものは、受け取らなくていい。
そんな単純なことに、はっと気付いたんですよ。