2012年9月29日土曜日

この世界の全てがニセモノだとしたら

頭で考える話。

自分が知覚できている世界というものは、全て感覚器官から神経を経由して脳に伝わっている。
感覚器官が受けた刺激を神経細胞の興奮、電気刺激と同じものに変換し、それが脳へ伝わっている。
もし、感覚器官が実は無くて、脳へ繋がっている神経がコンピュータに接続していて、そのコンピュータからの電気刺激を受けているだけだったら。
私はそうであるか否かを認識できるだろうか?確認できるだろうか?

いわゆる心理実験の水槽の脳というやつですが。
マトリックスの世界って言った方が分かりやすいですかね。
SFでは結構よく使われる設定です(笑)



もし、この目の前にある手が、実は存在していなくて、コンピュータが作る映像と触覚なんかの刺激が脳に送られているだけだったら。
もし、この目の前にいる大切な人たちが、コンピュータが作り出して私に見せて感じさせているものだったら。
その他の身体からの信号も、おなかが減ったとか、怪我した足が痛いとか、全てコンピュータで作り出した幻の信号だとしたら。
私が、世の中はこのように出来ている、世の法則はこうだ、これが真実だ、と知ったもの全て、コンピュータから与えられたものだとしたら。
私の知っている常識は、コンピュータから与えられたものであったとしたら。
それはつまり「そんな科学力が存在するわけが無い」という考えすら植えつけられた偽の常識だったら。
全部、実際は違っていて、何も無かったとしたら。
その疑いを持ったとしても、確認する術はないだろうなぁ。

もし全てがニセモノだとしたら、どう思うだろう。

私の結論は。
それでも全てが愛おしい。

少なくとも、私はここにいて、何かを思ったり考えたりしている。
それだけは、コンピュータからか?外界からか?与えられた何かによって、他者の意図で生じさせられた幻ではないはず。
この愛おしく感じる気持ちは、私がいなければ生じないだろう。
こんなことを考えているのも、私がいなければ生じないだろう。
これらだけは、幻でも何でもなく、私という存在がどんな形であれここにいる証拠。
私がここにいるということだけは、揺ぎ無い。

私が愛する家族や大事な人達、もの達。
彼らが幻であろうが何であろうが、私が彼らを愛しく思う気持ちはここにある。
世界が幻だろうが何であろうが、その対象を認知して私が愛おしく思う気持ち、これは本物。

だから。
世界が幻であろうがなかろうが、私はここにいて、全てが愛おしい。

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