2012年10月27日土曜日

「私が「できない」のは多数の事例によって証明されてる」?

人は自分が見たいように見て、聞きたいものだけ聞いて、そう思いたいように世界を認識している。
自分のことは分り難いですが、周りに目を向けてみると解りやすいかも。
1人くらいはいますよね。何を言っても自分に都合の良いことだけしか意識に入れない人。
あれは意識的にやっているのではなく、無意識にやっているんですよね。
情報が入ってくる時点で無意識に仕分けられていて、自分の都合のいい情報だけ使ってる。
都合の良くないものは、取るに足らない情報だとしてしまう。
程度や内容の差はあれど、同じようなことを自分もやっているんです。



自分が「こうだ」と思ったこと、または、「こうじゃないのかな」と思ったことに対して、その証拠を探すよう意識が向きます。
見つけると「ほら、やっぱり!」と嬉しくなるわけです。無意識に。いわゆる報酬です。
反例を見つけても、「これは取るに足らない情報だ」と無意識に仕分けて無視しがち。無視することで「こうじゃないのか」が「とりあえず正しい」を維持できます。
これが重なると、「正しい」を見つけることに対しては報酬によって強化され、反例はあっても無視することが反復により強化されていく。
下手すると、強化された「正しい」を維持する為に、反例はあってはならない、となることも。

例えば。
「それはできない」と思ったら、「できなかった事例」をコレクトするのですよ。
「できた事例」は、「たまたま出来たんだ。これは偶然。取るに足らない情報」と、意識から押し出す。記憶に残す優先順位も低いので、「あれ?また出来たぞ?もしかしてこれはできることなのかも?」となる可能性もどんどん薄くなる。だって、記憶に残っていなければ、毎度「たまたま出来た」の1度目になるわけですから。
沢山コレクトしてある「できなかった」に対し、少数と認識している「たまたま出来た」が太刀打ちできるわけないですし。

できない理由に対して、いくつもの「できなかった事例」を挙げてしまうのは、こうした理由なのかもしれない。「こんなに証拠があるから、だから「できない」は正しいんです」ってことで。
だから、「最初にできなかったこと」を思い出してもらうのかもしれない。
2回目以降は、「できない」の証拠「またできなかった」という事例になるのだから。
「またできなかった」の間に、どれだけ「できた」があっても、今「できない」と思っているのだったら、「できた」に注目していないってことだから。

最初に「できない」と思い込んだ、その思い込みを覆したら、「できた」も「できない」も公平に扱えるようになって、だから「「できた」が起きては「思い込みの反例になってしまう!」」と「できる」を妨げる必要が無くなるのかも。
…一番単純なケースですけどもね。

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