2013年2月2日土曜日

価値とエネルギー交換

神社でお賽銭に使うときは、なぜだか10円や100円なんかよりも5円玉のほうが価値があるように感じます。
 お札の使えない自販機の前では、千円札より500円硬貨のほうが価値があるって感じちゃいますよね。 

数字が大きい方が、価値は本当にあるのでしょうか?
金額が高い方が、本当に価値が高いのでしょうか?
人によっては、一万円より千円の方が何らかの理由で価値があると感じるかもしれません。
時と場合や人によって、価値と金額って一致しないような気がします。


話は変わって。
取引はエネルギー交換の一種なので、何らかの価値を得たら、同等の価値を対価として支払います。エネルギー交換は、どこから得るのか、どこへ払うのか、は、必ずしも一致しなくてもいい、というのが自然の法則なんでしょうね。

でも、意図的に提供者に支払う、というのが人間の感覚としては安心出来るエネルギー交換なのかな、と。
いつ、どんな形で支払わされるか謎のままにするくらいなら、今ここで、提供者とお互いに納得する価値で払って置いた方が、なんとなく安心な気が私はします。
払われる側としても、きっとそうですよね。
一般的な感覚としては。


自然(宇宙?)のエネルギーの流れを信じるなら、自分が払われる側になったときに、価値だけ得て対価を払わずに済ませた人がいたとしても。「あぁ、今回はこの人から直接じゃなくて、別のどこかから対価は来るのね」と安心していられます。
逆に、沢山貰いすぎても、「どこかでバランスを取るための支払いがあるよね」もしくは「どこかで支払われなかった分が今来たのかも?」と、また安心していられます。

もう少し言えば、自分が感じる提供したものの価値と、相手が得たものに感じた価値とに差があっても、相手に合わせておいてもいいやと思えるなぁ、と。
例え自分的に足りなかったとしても、不足分はどこかから何らかの形でやってくるだろうし、貰いすぎても適切な調整があるだろうし、その調整も意図的にどこかで払って帳消しにもできるし。


価格を提示して提供する場合は。
それを得た人にとって、その価格だけの価値のあるものになるわけですよね。
十万円の価値のものでも千円で提供したら、その人には千円分の価値にしかならない。
もしその人が十万円分の価値があるものとして受け取って、支払った千円がそれに匹敵する価値と感じられてなかったら、払っていない残りの価値の分の対価は、きっとどこかで支払うことになるのでしょう。多分。

そーゆーことなのかな?と、まだエネルギー交換に関することがどことなくしっくり来てない私は、モヤモヤしながら考えてみたりしてます。

何が腑に落ちてないのかもモヤモヤなので、全体的な理解も変なのかも知れませんか(笑)

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