2013年4月25日木曜日

満たされている


得ていない、持っていない、欠けている、自由でない、切り離されている、満たされてない、できてない、劣っている。
そういうのは、本当は全て満たされているのに、満たされている実感を持てないでいるだけなんだなぁって改めて感じています。

「愛」を例に出すなら。
足の先から頭のてっぺんまで愛で包まれているのに「私には愛が足りない、どこに愛がある?誰も愛を与えてくれない」と感じている。「証拠はどこ?私にはその証拠が実感できない。証拠を見せて」と、もがいてる。
その、愛を頂戴と差し出している手のひらには山盛りの愛が乗っていて他に何も乗らない状態だとしても、本人に自覚は無い。
「愛を頂戴」と叫びながら、頑なに何も受け取らないよう防御していたとしても、本人に自覚は無い。

そもそも愛は常に溢れていて、皆どっぷりと浸かっている。
自分がそうであることを認めるか否か、でしかない。
言い方を変えれば、どっぷりと浸かってることに気付くかどうか。それが愛だと気付くかどうか。
気付くのは、または、認めるのは、それができるのは唯一「本人」だけ。


「本人に自覚が無い」「本人に実感がない」は、「本人が悪い」のではない。
そうやって、身を守ってきていただけのこと。とてもとても大切なこと、その手段がそうだっただけ。
正しいやり方、なんてない。
ただ、懸命に、必死に模索して見つけたやり方が、そうだっただけ。何も悪くない。
必要だから、そうしてる。ここまで生きてくるのに必要だったこと。役に立ってきた大切なこと。
そして、多分、そうして何かを学ぶという経験をする為に、そうしてる。それもとても大切なこと。

だから「証拠」なんて探しても、意味は薄い。
必要なのは「実感」。
「実感を持っていい」という自分への許可。
そして、学んでいる「何か」を学び切ることも。でも、それを学ぶのにはその経験でしか学べないのかな?

「実感を持ってはいけない」から「実感」できない状態。
「実感を持つ」と「危険」だから。
そのままで「実感を持っていい」という許可を与えても、「いい」と「いけない」が両方あることになって
 「いい」→「実感を持つ」→「危険」
 「いけない」→「実感を持てない」→「危険は回避」
そうなると安全側に倒して「実感できない」を取る。
この場合「実感を持つ」=「危険」という部分を解消できれば良さそうね。

自分が嫌だなぁって思っているなら、それを「変える」ことが、実はとても簡単にできるって知っている私たちは、「嫌なら変えればいいじゃん」って簡単に言う。
私たちからすれば、変わるのを難しいことにしているのは、「変わるのって難しくて大変なこと」にしておきたい自分自身。

変わると決めるのはとても勇気のいることだし。
その辛い状態で居続けることも、とても難しいチャレンジに向かう決心だし。
どちらも必ず学びの糧になる。
どちらも、同じくらい尊い。

だから。
変わらない貴方を責める必要はどこにもない。
変わることを逃げ出すこととして貴方を責める必要もどこにもない。
何を選んでも尊い。
貴方は、貴方であるだけで、何をしていても、どうであっても、貴方は尊い。
貴方には価値があるし認められているし愛されている。
愛に満ちてエネルギーに満ちて宇宙と一体である。
素晴らしい経験をしているし、素晴らしい学びの途上。無駄なことなど何も無い。
貴方がそれを認められなくても、実感を持てなくても、そうなのよ。

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