最近の私のクリアリングのネタは。
「私のやりたいことって何?」
それを意識に上げることを危険だって感じてるようです。
全く分からないってしていた方が、安全だって感じているようです。
色んな角度で、色んなものが、そのようにブロックしてるみたいなんです。
でも、もう、分かってるんですよ。
自分のやりたいことを、どれでも好きなだけやっていい。
どれを選んでもいい。いくつでも選んでいい。
どれを選んだとしても、それは自分にとって最高最善の体験で。
その先に待っているのは幸せしかない。(苦労が無い、ではないけどね。)
確信を持ってます。
でも、どれが、何が、自分のやりたいことなのか、わからない。
選ぶのに躊躇してしまっている。とても怖い。
人に言うのも怖い。人に言わなきゃいけないと思ってるらしい…
ということが、ようやくblogに書ける様にまではなってきました。
今日は泣いてませんよ(笑)
で、今日見つけたことは。
私がやりたいと望んだことは、かなりの確立で母に「ダメ」と言われ、諦めさせられて来たように思います。
そして、大抵が「○○になったら、やってもいい」と許される条件を言わる。
その条件をクリアした時にもう一度「やりたい」と言うと、必ず「ダメ」と言われ、対して「以前こう約束したでしょう!」と私は説得し、「お前はよく覚えているねぇ(呆れ顔)」と母を諦めさせてようやく叶う、という、パターン。
条件は、数年後にならないと達成できないものが多かったですね。
小3の時には「ソフトボール部(5年生にならないと部活動に入れない校則だった)に入ったら」
「中学生になったら」とか「大学生になったら」とか「社会人になって自分の生活・生活費を自分で賄えるようになったら」とか。
今思えば、母はただ単に先送りしたかっただけでしょうね。
先送りしている間に、年単位で時が経てば忘れるだろうって思ったのでしょうね(笑)
私はバカ正直に、その約束は果たされるものだと信じ、条件をクリアするまで黙々と耐えていました。
決して忘れませんでした(笑)
そこから学んでしまったことは。
私がやりたいことは、必ずダメと言われて、許容される為の条件が設定される。
条件をクリアしないと、望みは叶わない。
説得に失敗すると、望みは叶わない。
なようですが。
これって前に何度か置き換えた~。
角度がちょっと違ったのか?また生えてきたのか?なわけで。
この思い込みも、もちろん要らないのですが。
それよりも…
行動を引き留められること、ダメと制止されること、と、愛が同じ
…だったことが大きな鍵だったようで。
違う違う、それ、同じじゃない!全然関係ない!!
許容されないことをやること=親不孝、とかも入ってましたね。
あぁ、なるほど、だから人に言わなきゃいけなくて、言ったらパターン的に「ダメ」と言われる、そのことを恐れてて、あぁ、なるほど、なるほど。
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